体験情報
【武士道 兆】武士の心得として最も重要なものは何か。袴・草鞋・刀を身に着けて礼儀・所作・型を学ぶ
【武士道 会得】日本刀の真剣の重さや切れ味に触れてみてください。刀の基本的な刀を抜く【抜刀】・刀を納める【納刀】)を学びます。
武士の心得として最も重要なものは自分の成し遂げたいもののために、一分一秒、魂を賭してそれに向き合うこと。
剣術の練習は何よりも心を育むことを目的としていました。武士は、熱心な練習と極度の集中力を通じて無念無想、執着や先入観のない、状態に達することを望み、よって即座に対応できるのです。
【武家茶道】武士は命がけで「もてなし」をし、命がけで「もてなされた」ので武家茶道でもてなしを受けてもらいます。
また茶道の精神のひとつが、「もてなし」なのだ。「もてなし」が出来なかったということになると、武士としては末代までの恥で死に値する。武士は命がけで「もてなし」をし、命がけでもてなされたのだ。
ひとつごとに悟りを開ければ、どんなことにも精通し多くのことを理解できる。
茶道は交際儀礼を養う教養の一つとして、また武士の名誉にも繋がっていました。
【辞世の筆】大坂の陣という戦を前に、死を予見してこれまでの人生を振り返り全紙に最後のひと文字を大筆で!
(例)真田幸村の辞世の筆『定めなき 浮世にて候へば 一日先は 知らざることに候(このような不安定な世情ですから、明日のこともどうなるかはわかりません。私たちのことなどはこの世にいないものと考えてください)』
豊臣秀吉の辞世の筆『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢(天下人になったものの、露が落ちて消えるようになくなってしまうような人生だった)』
【武士道 極】戦場大阪城 - 甲冑兜を身にまとい、大坂の陣で武功をあげよ!!
「大坂冬の陣・夏の陣」は、「関ヶ原の戦い」の勝利によって江戸幕府の征夷大将軍となり、天下の覇権を握った「徳川家康」が、大坂城を拠点とする豊臣家を滅ぼした戦いです。1614年(慶長19年)の戦いを「大坂冬の陣」、1615年(元和元年)に再開された戦いを「大坂夏の陣」と言い、2回の合戦を合わせて「大坂の陣」と呼びます。かつて大坂冬の陣・夏の陣が繰り広げられた古戦場「大阪城」に、甲冑・兜姿の武将に扮して戦に参加します。※この戦いによって、栄華を誇った豊臣家は滅亡し、徳川家康・「徳川秀忠」らによって、約260年にわたる天下泰平の世を迎えることとなりました。
【腹切り】侍は名誉のため戦に負けても縄目の恥辱を受けず、捕まる前に腹を切って死ぬのです。
侍は自分に恥じない高潔な生き方をし、名誉のために命を懸けることもあり、切腹はそのうちの代表的な礼です。また、とある目的のために死を厭いません。武士は、朝が来るたびに死を覚悟するもので、朝の静寂のひとときに、自分が雷に打たれ、火にあぶられ、刀や槍で切り裂かれる様を想像します。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、死に身になっていれば、一生落ち度鳴く、家職を全うすることができると念頭に、玄関の一歩外が死界という意識を忘れずに日々過ごします。武士道ではこれらのことを念頭に置きながら美しく死うことを追求します。
【聖地巡礼】ナイトエコノミータイムに大坂の陣や大阪城と縁のある場所を聖地として巡ります。
例えば
【大阪城 自刃の地】慶長20年、大坂夏の陣にて徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母君である淀殿が、山里丸にあった檜にひそみ自害。それに因んで、現在の山里丸の一画に記念碑を建立した。
【三光神社】真田幸村像と本城からこの地までの真田の抜穴跡がある。
【真田山心眼寺】 真田幸村が大阪冬の陣で戦った真田出丸が築かれた場所と言われ、門前には「出丸城跡」の石碑が建てられている。
【安居神社】大坂夏の陣において、真田幸村が徳川家康の直前まで迫るも取り逃がし、この地で力尽きて戦士したと伝えられている。
【大阪城】日ノ本一の書道マスター教室を着物で(カップルで家族皆で)体験。体験の記念に扇子や掛け軸に直毛筆をしてお土産に!
好きな言葉や自身の名前の当て字を、それを日本ならではの扇子に書いていただきます。世界にたった1枚のオンリーワン扇子・掛け軸をお土産としてお持ち帰りください。